知識を共有することはポジティブな事のはず、でも…
思うこと、考えることがあるのだけれど、
それを文章にして残すことが怖くなる時がある。
海外で過ごした時間を含め、帰国後から現在まで
自分の中でゆっくり積み上げ重ねてきたものを
せめて記録しておこうと
慎重に時間を掛け、何度も書き直しながら、紡いでいる。
ピアノを弾くという事に関し、遠回りと淘汰を繰り返し、
得た自分の認識の中で、
先も見据えられそうな重要なポイントである可能性があると感じたものは
自分の言葉で丁寧に記してきた
のだけれど...
ある時、気付いてしまった。
自分の投稿が、
他人(もてなしたことのある知人)発信の言葉として使われていることに。
私は消され、そこにいないかのように、記されていたのだ。
しかも、情報として切り抜かれただけではない。
その人の浅慮で短絡的な勝手な解釈によって
その意図や真意が完全にねじ曲げられてしまっていた。
動画を付して投稿され、拡散されて、そこに私の気配は無い。
残っているのは、
勘違いを招くそぎ落された言葉や、私の知らない解釈だけだった。
それを見つけた時、最初に胸に現れたのは、「怒り」ではなかった。
ただただ、唖然だった。
また耳障りのいい言葉や一見分かりやすいようなものというのは、
恐ろしいほどに、すぐに拡がっていく。
そんな異常な早さや状況に、静観するしかなくなっていく。
あの時、私が書くときに感じていた温度、考え続けた時間、
ため息まじりの迷い…
そういったものは儚くも無視され、誤った言葉だけが独り歩きしていった。
その背景にあるものは、
その「誰か」の自己顕示欲であるのが、透けて見えた気がした。
そして何より悲しかったのは、その欲が前に出過ぎたことで、
音楽に対するリスペクトが見失われていたことだった。
あれからどこかで自分を守るようになる気持ちが付き纏う。
書く文章は核心をぼかし、曖昧な言い回しになり、
読み返すと自分でも意味不明な文面になっていることがある。
それゆえ、
こうであるにもかかわらず、共感でないことも多々あろうけれど、
いつも読んでくださるフォロワーさんには、感謝である。
今日もフォロワーさんのイギリス館のお話は、とても楽しく拝読した。
いつか訪れてみたい…という気持ちがますます高まった。
横浜近辺に友人がいるので、連弾演奏会とかしてみたいなぁ、、、と
真剣に思っている。
本来、知識というものは循環してこそ価値があるもの。
誰かがそれを受け取り、咀嚼し、また次への世代へと伝わっていく。
そこには発信者がないがしろにされることもなく、
美しい連鎖があるはずで、またそうでなければならない。
しかしながら
アカウント不明の状態でフォローできる便利機能というのは、
核心の書きにくさを生む、電波障害のように感じるのは、私だけだろうか。
X のようなSNSの場合、キャッチーでパンチが強い言葉というのは、
発信元の著作権はあっても無視され、玉石混交になりやすく
本質がおざなりになりかねない。
結局どこの世界でも同じなんだな...
そう感じてくる今日この頃。
音楽に誠実で敬う姿勢をいつまでも保つこと、改めて考えている。

