ショパンとデッペに学ぶシンプルな・・日本語になった本
最近、ほんのわずかだが、読まれる気配のある一冊がある。
それは、故エルギン・ロス教授(ドイツ)の著書
邦題名は、「ショパンとデッペに学ぶシンプルなピアノ演奏法」。
コサキ共子訳、
わずか150ページで読み終えることのできる、一見安易そうな書籍である。
主に、デッペとショパンの奏法の類似性を研究した内容のものだ。
この本が日本で刊行されるより前に、
私はこの本の原書(ドイツ語版)の存在に気付き、取り寄せ
拙い頭ながら翻訳して読んでいた。

使われている単語が、日本語となると何が適切になるか、
ある意味、奏法本であるがゆえの難しさがあった。
昨年の夏に邦訳本が出たことを知り、
日本語版も手に取ってみたという経緯だ。
翻訳者であるコサキ氏は、訳者紹介文によると
ロス教授との具体的な関係や、
実際、ロス教授の講義に出席されていたかについては言及されていないが、
ドイツ在住の経歴が非常に長く、また講師経験もお有りのピアノ教育者、
ピアニストでいらっしゃる。
この日本語版の表題は原本のままではなく、副題と主題が入れ替わっており、
肝心のキーワード「再発見(Wiederentdeckung)」が、
日本語表記としては見当たらない。
帯文も、原書には見られないものが日本語版に追加されているが、
これは日本に向けて、この書籍に興味を持ってもらうため、
促販に繋げるための考慮が込められたのだろう、と感じる。
私が留学を含む長年の探求を通じた
自分自身の身体感覚や演奏実践の積み重ねの結果は、
デッペやカラントの奏法と一致している。
ヨーロッパに残されている古い書物を可能な限り収集し
読み進めた中で、
自らの感覚と一致する記述を確認し、その関連性も少しずつ調べてきた。
本書は、特にショパンとデッペに関する視点に重きを置いた
ロス教授の最後の著作。
両者が生徒に向けた助言を並立させている点は、
故ロス教授が、ショパンをデッペと同じように生理学的に捉えていたことの証左になる。
その意味でも、「再発見」という言葉の持つ意義に
深いものがあると捉えていた。
本書の構成も、簡潔だ。
ショパンの音楽とデッペの教えに見られる「Einfachheit」を、
あらためて捉え直す——
まさに「再発見」することが、本書の核となっているように思われる。
それゆえ、日本語版の表紙に「再発見」という漢字が記されていなかったのが、
残念だったというのが、私自身の率直な思いだ。
この本が出版された時期は、
各国で伝統的な奏法にあらためて目が向けられる動きが見られ、
近年では再発行される資料も増えてきていることから、
その流れの中に位置づけられる一冊とも言えるだろう。
ロマン派ピアノ芸術の黎明期における代表格ショパンを
生理学的な観点からもアプローチした見解。
無意味、不可思議と捉えられる理由は、現代のどこにあるだろうか。
ショパンの音が特別な魅力を持っていたと語られた証言は多く残されているが、
彼自身による明確な奏法書は遺されていないため、
これによって解釈の幅が広がるのもまた自然なことかもしれない。
カラントの逝去に伴い
100年前に表舞台からいったん消えたかのようになっているデッペ=カラントの理論は、
注目をあびたものの一過性にとどまり、
簡単に受け継がれられなかったという希少性に、
本当の意味がある。
さらにそれより50年前、ショパンを意識できる
「妖精が舞っているかのような音」「腕は指の奴隷」の真意を
そこに発見できなければ
この本の意味はなくなってしまうだろう。
この本の序章に語られていることをいかに読み取るかが要であり、
慎重に言葉の意味を深く思考しないと、
誤解、曲解に巻き込まれた、かつてデッペの繰り返しになる。
時代が古いから古い奏法、ではない。
現代の生理学の知識をもって深堀すれば、消えてしまった理由は見え、
ベールが被されてしまったものだということに気が付かされるはずである。
正直なところ、
コサキ氏が訳題した「シンプルさ」の単語部分は、
自分の訳では「精緻な」としていた。
『 Simplicity is the ultimate sophistication.
シンプルさは、究極の洗練である。 』
これは、L.ダヴィンチの至言だが、
コザキ氏が「Einfachheit」を「シンプルな」と訳した意図を
今の私は、ここに重ねている。

