セルフ出版本「ニューロ・テンシル・プロ・ピアノ奏法」




しばらくブログから離れてしまい、
昨年の9月初旬の「拝啓、夜明けのショパン様」以来の投稿になってしまいました。

私のような素人でも、セルフで本の出版ができる時代になり、
この半年近く、拙著の創作に没頭していました。

昨年、まだまだ暑かった頃、原稿の概略はできていた、、、つもりだったのですが、
いざ書籍化の実行となると、
ほぼ書き直さなければならないほど、順列も整っていない内容であることに
改めて気が付くことになり、
さらに文脈など乱筆の甚だしさも加わり、訂正事項の山積となってしまったのです。

推敲の繰り返しの日々は、入稿まで5か月という当初の年内出版という計画を
遥かに超える時間を使ってしまい、不安と孤独を痛感しました。

ピアノ奏法論というのは、
現代ピアノの形が整ってから、いつの時代もカオスだったように見えます。

1900年初頭、ヨーロッパにおいても、
相当数の奏法本が出版されていたよう。
2000年を超えた現代の日本においても、それは然り・・・で

私の本の内容の概略は、麗しきショパンに導かれた神経科学的な理論と
それに纏わる自論の展開というような奏法論文に近いものであり、
一般的な明確に捉えやすい奏法書とは異なるものと感じられるかもしれません。

でも、咀嚼が重なれば、少なからず
書の中に中核となるものがあることは、伝わる、、、はずと
思いながら進めました。


言葉の解釈には必ず誤解、曲解が纏わり付くことを念頭に置かないと
真理は見えてこないという持論がありました。

どうして日本では、これほどデッペ=カラントが正しく理解されていないのか。
なぜ重力奏法のブライトハウプトとヒトマトメにされ、おざなりにされてきたのか。

それぞれの理論がそれぞれの人にあり、理解の仕方は様々で、
確かに奏法は強要などするべきでないし、また到底できるものではないけれど、

結局、深い洞察を常に持つ意識がないと
ショパンとデッペ=カラント
彼らの解剖学的に内在するものの真の意味は見えてこない、
固定観念を取り払い、物事を受け止めることは意外と難しい、と心底感じます。


カラントはショパン奏法を深く尊んでいた節もあり、
自身の書物の中で、カラント自身の身体の中に起きている理論に
ショパンを意識し絡ませた言葉を遺していました。

彼女の古書物に深く入り込んでいけば、自然とショパンという存在に重なり、
デッペ=カラントを真に理解すれば、
ショパンとの類似性という観点を研究し続けたエルギンロス教授のように、
点と点が結ばれる。
私は、そこにも当然のように沿った一つの奏法論を立てるに至りました。


ショパンの奏法にあった
まるで、靄に包まれたかのように神秘で優美であったろう、その気配と音。

人間の身体は、200年前も今も骨や筋肉の数は変っていない。
200年前も、間違いなく神経科学はそこに存在していたわけで、
ただ今に比べ未解明な領域が広かった分、言語化が難しかった。

ショパンとデッペ=カラントの根本的思想とそれを結びながら
現在の自分の身体知の根幹と繋がる原理を視座した、
というのがベースにあります。

自分の研究成果の一つとして、
軽々しく扱われるのも、正直悲しいかなと感じ、
論文の形にしようかと考えたりもしましたが、
その資格地位のゲットの方がむしろ難しいゆえ、著作権のある書籍を選択しました。


デッペ=カラントを体現しても、私がしがないピアノ奏者ゆえ、
その解読になかなか耳は貸してもらえないであろうけれど、

歴史上人物の一つの奏法理論として、カラントが遺したこと、
そして当時の生理学では文字にできなかった、もう一段階深い部分を
現代(ピアノ)でも「手が羽のように軽いこと」で証となるひとつの標として
遺ればいいな…と思っています。

(商標登録出願中)