波ふたたび地図を忍ばせて


当時は、
まだ日本からワルシャワへの直行便は無かった。

トランジットが長く、
ヘルシンキ空港の白夜をずっと見ていた記憶がある。

今回は、航空会社のサイトから直接購入した
完全な個人入手の旅券。

セミナー時の
ツアー旅行のような安心感はゼロだったはずなのだが、
人生二回目の出国を不安に思った記憶がない。

日本との時差は7~8時間のポーランド。

無事、12時間超えの移動時間を経て、
ワルシャワ・オケンチェ空港に到着した。
(今ではお洒落に
 フレデリック・ショパン空港と呼ばれているらしいが、
当時は、地味にオケンチェ空港だった)

到着口には、
第一の住み家になるアパートの住人Hさんが、
大家さんと一緒に迎えに来てくれていた。

(Hさんは、約2ヶ月後、日本へ完全帰国の予定で、
それまで当アパートで少し同居生活をする約束になっていた)

オケンチェ空港には、
今は変わったかもしれないが、当時、白タクがいっぱい居た。

到着口から出口までの軌道の両端には、
白タクのおじさんが並び、

観光客らしき外人に、
ひたすらタクシー?タクシー?と声を掛けているのは、
お決まりの光景だった。


私を後ろに引き連れて、

それを、”にえ じぇんくいえん”と、流暢なポーランド語と
態度であしらうHさんの背中から学んだものは、

短い期間ながら大きかっただろうと思う。

大家さんは調律士さんでもあり、
ピアノに携わっている人だったため、

音楽に理解が深く、その後も色々サポートして下さった。


状況的に入試までのピアノ練習は、
家では出来ない、
日本のようなレンタルスタジオも無かったのだが、

大家さんのコネクションのお陰で、
小学校や中学校のピアノがあるお部屋を
有料で貸して貰えることになった。


たしか使っていない早朝の時間帯など、
凄く早起きして行き、
入り口の守衛のような囲いに居るマダムに身分を言って、
ドブラ!(OK!)と入らせて貰っていた覚えがある。

当時、スマホもグーグルアース先生も居ない時代。

今振り返ると、着いて間もないしゃべれない若造が、
観光地から全く外れたそこまで、
よくビビらず一人で行けたなと思うが、

Hさんから
まず始めに絶対買うべきもの 
として教えてもらったのは、
確かに、中型のワルシャワの市内地図だった。

紙製のハンドブック型の地図。
通りの名前が全て記載され、
トラム、地下鉄、バスの路線も網羅しているもののことだ。


しかし、
地図をあからさまに出して見ながら街を一人歩くのは、
外国人として自爆行為と考えた私は、

今日の行き先を定めると、
出発前に往路復路の通り名と軌道を頭にたたき込んで、
地図は、必要なページを最小限に絞り、破って、
小さく畳んでポケットに忍ばせるようにしていた。

チェントルム(中央駅)の地下リングになった回路なんて、
出口が分からず何十回ぐるぐる廻ったか分からないが、

お陰で、
めげずに気丈な”ふり”をして一人歩き続ける根性は、
自然に身に付いていったのだろう…と思う(笑)

基本的に治安は悪くない国だけれど、
自宅でネットをやろうものならば、
まだパソコンを電話線に繋げなければならなかった。

日本より便利ではないという環境は、
事前に想像を膨らませ、考え行動することを
必然的に強いてくれたと感じている。