近所からの苦情 と ピアノ探し
ワルシャワの学生生活。
旅行やセミナーでは気付かないカルチャーショックに
毎日ドツカレルのは当たり前のことだったが、
その中、生活面で苦労したベスト3には
やはり「部屋のこと」が思い出される。
学期初めの頃は、
ポーランド語の語学学校が毎日の様にあった。
(確か、外人学生のために、
履修課程の中に含まれていたものだったと思う)
ショパン音楽院より学校校舎が遠くて、
トラムとバスに長く揺られて通っていた。
朝から行くと、必然的に昼過ぎまで家を空ける日が多く、
朝から練習することは毎日ではなかった。
前の入居者Hさんは、学部生だったこともあり、
大学で過ごしていた時間も、私より多かっただろうと思う。
日本の大学生活っぷりは、海を渡っても相変わらず
授業は皆勤賞で出席していたのだが…
とうとう…上の階の部屋から、音の「苦情」が来た。
これは当時から留学生の間でアルアルの話で、
それが原因で引っ越す話は、よく耳にしていた。
大家さんが調律士さんである点、
当部屋も、分厚い絨毯、壁にも素人なりの
防音への配慮の施しはされていたのだが…
ある日の夕方、日が暮れ始めた頃、
突然、
ピーンポン!ピーンポン!ピーンポン!
どんどんドン!!ドンドンドンドン!!!
ピーンポン!ピーンポン!ピーンポン!
どんどんドン!!ドンドンドンドン!!!
『 お◈wh▒fgp9◎5クォい「ポリチア!!」
うj£g府g㍊rh■pj@v9fイ▢ェrq「ポリチア!!」
どんどんドンドン!!
g+おtr※◇kg0◩◊∑8y0〓h‰5g@j42∑5歩m「ポリチア!!」
(↑早口で捲し立てて何を言っているか分からない怒鳴り声のポーランド語)』
((((;゚Д゚)))))))((((;゚Д゚)))))))((((;゚Д゚)))))))
上階のどこかの部屋の住人が、私のピアノの音に憤慨。
上から降りてきて、
私の部屋の呼び鈴を連打し、分厚い扉を激しく叩き、
早口のポーランド語で 激しく怒りと苦情を言いに来たのだ。
まだ語学学校も行き始めて間もなくの事、
ドンドン拳が扉を殴る音の恐怖と
隣人の怒りの矢が真っ直ぐ自分に向いていることで大パニック。
冷静さも失い、
ポーランド語が何を言っているのかも分からない。
しかし、皮肉にも“ポリチア“という『警察』のワードだけは、
はっきり聞き取れる。
警察? 捕まる?!((((;゚Д゚))))))) 私、逮捕?!強制送還?!
チェーンを掛けたまま、恐る恐る扉を少し開けると
その10cmほどの隙間から、
ヒゲモジャの大男の隣人さんの姿がこっちを向いているのが見え、
私と目が合うと、続きの剣幕が再開した。
しかしながら、言い続けても言い続けても、
ぺったんこな顔をした150cmのアジア人は、黙ったまま何も言い返さない。
(↑こっちは恐怖で固まっている状態。)
そのうちピークは超え、だんだんヒートダウン。
やがて小さく憤慨しながらも、階段を上がっていった。END.
ピアノが置いてある部屋(大家さんの備品という名目だった)ゆえ
弾いて良いとは言われていたが、
怒鳴られたショックで、そのまま大家さんに電話を掛ける。
しかし当部屋から
車で2時間くらいかかる所に住んでいる大家さんに
泣きじゃくって下手なポーランド語で訴えたところで、
現実、何も解決にはならない。
床に涙の湖ができた頃、私もようやく落ち着き始めた。
後日、少しでも防音になる様に、と
大家さんのDIYで、更に壁に色々造作をすることになった。
天井や壁に綿を重ね貼りしてくれたと思う。
しかし、現実 音というのは、
そんな甘い話では無いことはどこかで分かっていた。
解決した なんて思うことなく、
気に掛けながらの練習を続けていた。
そして、私の不安は的中し、
2度目の苦情が来た。
今度は、ヒゲもじゃのおじ様ではなく、マダムだった。
同じ部屋の住人かどうかは分からないが、
「12時から14時は、私はお昼寝か読書の時間なの。
だから、その時間帯は、弾かないで。」
と言われた。
それから、私の12〜14時は、毎日お散歩タイムになった。
お天気が良ければ、
ワジェンキ公園へリスくんにくるみをあげに行く時間。
手持ちの地図は、行き先が拡がるに比例し、
どんどんバラバラになっていった。
散歩は、
その歩みの速度でないと見えないものを気付かせてくれたりする。
足でポーランドの四季を感じることは、
写真や映像では想像しきれない感触だった。
散歩が進化し過ぎて、探検化し始めたある日、
気付くと周り一面雪で、
自分の行方が自分で不明になりかけた事もあった。
おかげで、ワルシャワ内の数々のスーパーの在処は、
私の頭の中で、かなりグーグルマップ化していた。
マダムのご要望に応える形をとりつつ、
色々大家さんとも引き続きやりとりし、
学校の練習室を使ったりして対策も練りながら、
過ごしたその後、しばらくは苦情は無く、
2005年のショパン国際コンクールの時期を迎えた。
ファイナル、優勝候補だったブレハッチ氏の最終日のチケットは
取れなかったため、
その部屋で
ラジオの生放送を聴いていた記憶がある。
しかし、住人の事情や形態も、ずっと同じなわけがない。
時の経過で無くなるモノばかりじゃない。
そのアパートはどうあがいても
音大近くエリアの寮でもない(当時、寮は日本人は入れなかった)。
3度目のクレームが来た。
時間帯だけではない、更なる条件を言われたと思う。
やっぱりダメか。。。という気持ち、申し訳ない気持ち
音を出すことの恐ろしさを拭えないことが重なり、
色々尽くしてくださった大家さんには
申し訳なかったが、引っ越しすることを決断した。
タイミングが大事とはよく聞くけれど、
ちょうどその時、
日本人で私と唯一同門だった先輩が、
完全帰国するということで部屋が空く→引き継ぎ住人募集
ということに巡りあった。
大学からは更に遠い場所になるけれど、
そこは、代々日本人が住み続けているという部屋で、
先輩も、日本人からのコネクションでその部屋を契約していた。
さらに良かったのは、最上階の部屋だったこと。
そして階下の隣人は、のちには、
音のことは全然気にしないで。
いつもラジオでピアノを聴いている気分なの♪と
言ってくれるファミリーだった。
ショパンの生まれ故郷 ポーランドでも、
人によって、音の見解が全く違うことを知った。
唯一、困ったのは楽器の事。
引き継ぎ住人の立候補をしたのが、
先輩がピアノを売り払った(手放した)後だった。
つまり、その部屋にはピアノが無い。
そこから
ピアノ 探しの毎日が始まった。