ピアノ奏法 その2 〜脱力への疑問〜
弦楽器、ヴァイオリンなら、「弦と弓」
打楽器、マリンバなら「音板とマレット」
ピアノなら、「鍵盤と指」ではなく
いくつもの部品を通過したその先の「弦とハンマー」。
発音する接点が奏者の手元から遠く、
ヴァイオリンやマリンバのような直接的な距離感でないことも
ピアノの難しく面白い魅力なのだろう。
そんな距離感を踏まえた脳からの指令によって、
胴体から指先にまで伝わってきた力と
たった1センチの深さ&50グラム前後の世界の鍵盤とのコラボは、
ハンマーに多様で繊細な動きを生み出す。
起点は一瞬。
その一瞬の鍵盤=ハンマー操作次第で、
奏者ごとの明らかな「発音」の違いが生まれる。
そして
楽譜から読み取ったもの と 奏者のセンス etcによって、
その一瞬一瞬の重なり連なりは表情と化し、
和音、メロディー、フレーズ感…は
個性とともに「音楽」となる。
太鼓、マリンバのバチやマレットのように
指先を取り替える事はできないが
ショパンらしい音とか、ベートーヴェンっぽい音とか、
弾きわけをも要され、
伴奏や室内楽となれば、ソロとはまた別物になる。
ピアノは、実に変貌可能な楽器ということだ。
原理で言えば、奏法が似ていると(体の使い方)
似通った音質になるのは確かだ。大学で言うと門下カラーみたいな。
けれど、その先の深みはやはり個々の経験次第になるだろう。
日本の奏法が、ガラパコス化していると揶揄されていたのが
かれこれ十数年前のネットの中の文字でのこと。
いつからか
脱力=力が脱する/抜ける=楽に弾ける=正解 というような図式が
ピアノ界で通説のようになり、
エビデンスが不透明な脱力講座も堂々とあるような気がする。
しかし本当にその“弾ける“体感は、
「脱力」というものから来ているのだろうか?
人は、常にバランスを求めている(保つ動きをしている)。
寝返りしハイハイし立ち上がり…
生まれてすぐ皆バランスを取り続けている。
何事にも重力に適した力を無意識に使っている。
力が過剰だったり、あるいは不足だったりすると
不快感を感じたり、
出来なかったり、ひどければ故障したり。。。
そのしたいと思う動きに対し適した力が使えた時、
ヒトは良い○マルと感じ(もしくはもう習慣的な無に感じ)、
アンバランスの時、バツ✖️と感じている。
つまり、ピアノのアクションにも需要があり、
それに対し、適した供給=適した力で弾けた時に
人は弾きやすさを感じ、弾ける、弾けたという体感をする。
実際、こちらのサイトにあるように
骨格筋の構造
https://www.kango-roo.com/learning/1725/
そもそも、脳からは脱力という命令は出ない。ヒトの身体の仕組みとして
筋肉を弛緩でなく収縮させることがスタートなのだ。
人間がコントロールしているのは、
脱力でなく、収縮のレベル値。
初心者・上級者に限らず体の仕組みは皆共通。
「脱力」という漠然としたイメージが功を奏し、
自分の体の中で何かしらの変化(前とは違う)を生むことは可能だが、
上級者が自分の音色の変化や表現の技術に行き詰まった時、
結局「脱力」では解決しない。
海外の著名ピアニストは、肩から指先までを巧みに使いこなすことで
極上の音楽を届けてくれる。
洗練された音、巧みなテクニックを持つピアニストの
支点・力点がどこにあるか。
それを探ることが要では?
私は、そう考えている。
(続く)