ショパンの国から 3大Bの国へ その1
日本を離れてからの時間が長くなっても
日本の恩師の言葉は、忘れる事なく過ごしていた。
レッスン中の
ロマニウク教授のTAK(そうだ!)やラミーロ先生のドブジェ(良い)は
時間の蓄積に比例してそれなりに少しずつ増えているのを感じてはいたが、
自分の中に“出来上がった“というような確信には至らない。
それが私には、
先生たちが自分に寛大になった(甘くなった)のかな…と捉える事もでき、
そんな頃から、今の自分には、
ここで環境を変える、今一度「0=ゼロ」に戻ってみることが
必要かもしれないと考えるようになった。隣国ドイツへの移動である。
ポーランドはポーランド語。
ドイツはドイツ語。
隣国でも、文法も発音も全く似ていない言語の国。
そんな時、
日本出発のドイツ短期のピアノセミナーがあるのを知った。
正直本来の希望からすれば、ロシアに関心があったのは勿論だったが
当時ロシアは短期滞在すら懸念されることがしばしば起きており、
治安の面で不安視した。
ドイツは、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスの3大Bの国。
ポーランドよりも物価も日本寄りになり、先進的な面も多いが、
「0ゼロ」に戻って勉強するには適切な国だと思った。
ロマ教授から
シュトゥットガルトに良い先生が居ることも聞いていたのと同時に、
そのクラスを担当する故ルディアコフ教授(残念なことに2012年に亡くなっている)
のレッスンを受けてみたかったため、
シュトゥットガルト音楽造形大学でのセミナーコース受講を希望し、
私は日本からではなく、ポーランドからの参加を願い出た。
実のところ
2005年のショパン国際コンクールを聴いてから、
兄弟で出場した韓国人の弟ドンヒョク氏の音がずっと耳にあった。
当コンクールでのブレハッチ氏の優勝は、
「ツメルマンの再来」やら「ショパンの生まれ変わり」やらと
ワルシャワ市民も開催前から待望してて容易に予想できたのだけれど
ドンヒョク氏には、別の音の世界観を感じて、
当時この音の違いはどこから来るのだろうと思っていた。
ドンヒョク氏は、すでにロシアの留学を終え(コンクール時はハノーファー)
『彼は黄金の手を手に入れた』と言われたというのを知った時
ますます何かの違いがあるのを感じて惹かれた。
ルディアコフ教授は、ドイツが拠点ながら
モスクワで勉強した人だったのでとても興味があった。
セミナー期間中、たった2回くらいのレッスン内容だったので
現実どう考えたって教授できることに限界はあったが、
他の日本人の参加者のレッスンも全て聴講でき、
大学も十分に見学でき、街並みの空気も知る事ができ、充実して過ごせた。
ただロマ教授とラミーロ先生から聞いていた良い先生という
シュトゥット音大のラトゥシインスキー教授は、
その期間、ちょうど出張中/長期不在で会うことが叶わなかった。
留学を続けたければ、まず大学の教授とコンタクトするしかない。
何も無くポーランドへ帰るわけにはいかない。
私は、大学に備わっている教授陣宛のポストを探し、
ラトゥシインスキー教授へ
‘’私のピアノを一度聴いて欲しい“ という旨の手紙を入れ託すことにした。
プロフェッサーから返事が無い、メールを出しても音沙汰なし
というのは、よく聞く話。
私も当然その覚悟はしていた。が、幸いにもワルシャワに戻り間も無くして、
ラトゥシインスキー教授から「お便り見たよ」とメールがあり、
結果、直接会える日程を約束してもらえることになった。
その後、再度単身でシュトゥットガルトへ渡り、
教授と会う事が叶い、演奏を聴いて貰い、先生の門下生になりたい意志を伝え、
快く次の大学入学試験に向けてのレッスンをしてもらえることとなった。
残すは、ショパン音大の卒業を無事終えること。
毎期の定期試験は受けていたので、
ドイツの音大でのマスター課程入試資格のために、
私は単位満期取得としてショパン音楽院を終えることにした。
その2に続く