シュトゥットガルト時代のアルバイト


ドイツ・シュトゥットガルトでは、

(当時)ポーランドと違い、外国人留学生は400ユーロくらいまで
現地で稼ぐことが許されていた。

それ以上稼ぎたい場合、たしか
ドイツ人と同じ住民税を払えば、可能になるとかいうシステムだったと記憶。

当時のレートは、1ユーロは、びっくら180円を越えていた。


自分は、平均より長い留学という自覚。

私は、政府派遣の優秀なピアニストでもないし、
親の理解は大きかったが、良家の子女ではない。

私も、400ユーロギリギリまで収入を得ようと考えた。


そんな中、シュトゥットガルトに
小・中学生の子どもたちが日本の学校教育を受けれる場があるのを知った。

いわゆる日本人学校と言われる施設である。

とはいっても、シュトゥットガルトのそれは
主要都市にある独立した日本人学校とはまた別のもので、

地元のドイツ人小学校の校舎の教室を
休みの土曜日だけ利用させてもらう形で、開校している補習校である。 


例えばパパがドイツ人、ママが日本人というハーフ子女や

親の海外勤務のため、現在はドイツ在住だが
いずれは日本に帰国する可能性がある日本人の子が、

月曜から金曜のウィークデイは、現地校でドイツ語教育
もしくはインターナショナルスクールで勉強し、

土曜日だけ当校に通って
日本語で日本の教科書を使った学校教育を受けるわけである。

その時、教員募集を見たわけではなかったと思うが、
なにか縁があれば、と、教員免許状の写しと履歴書を送っておいた。


そしたらミラクル。

早々に、校長先生からまさかの連絡、直々のお電話が。

三年生の担任の先生が急に日本へ帰国しなければならなくなったので、
先生を探しています。すぐに会えませんか?と。


たしかに小中の教員免許は携えている。
だが、自分は、院を中退して社会経験の無いまま、留学した時系列。

土曜日だけといっても、先生という責任の大きさが縮小されるわけではない。

履歴書を送りつつも、正直 担任の先生なんて考えは無く、

マックスで、担任講師の補助という立場のヘルプ要員で使って貰えるくらいが
自分のできるギリギリだろうと思っていたのだけれど。


校長先生のお声がかなりひっ迫しているご様子だったのもあり、
とりあえず、その週末、学校見学に伺うことになった。

学校は、予想より自分のアパートからほど近く、
受験時に通った予備校・塾を思い出させるような建物だった。

校長先生にお会いし、クラスの様子を見学させて貰ったのち、
じーっくり話し合って、決意。学期途中の小学3年生クラスを私は引き受けることにした。


当校に自分の子どもを通わせている親御さんは、皆、真剣である。

現役大学生である20代の子娘が、担任を引き継ぐなんて聞いたら、
心配、不信になるのは当たり前のことだ。

『そんな学生の片手間に何ができるんだ』と、
父兄からはむしろ反対の声があっただろうと思うのだけれど、

教育現場に対する誠意・真剣さがなければならぬ立場であることは、
教育大卒業生として、重々承知している。

確かに時間に沿った報酬は頂くが、こちらも安易な決心ではなかった。

父兄から要望された授業参観は、引き継いですぐ実施し、
実践で応えた。

小学3年生は、なかでも、一番生徒数が多い学年。
従って父兄の目も多かったが、

非常に教育熱心、真剣な親御さんが一同揃っていたことで
子どもに対する気持ち・考えが一致して連帯感も生まれていた。

毎週の漢字テスト、
毎週まわってくる日直係の取り入れも大歓迎してもらえた。

悪い時はいくらでも叱って欲しいという親の熱心さや協力態勢、
そして素直な子ども達に助けられ、

結果的に、意義のある週一のお仕事ができたのだった。


補習校といえど、学校行事もちゃんとある。
運動会や学芸会、遠足。。。

担任は、学校行事の準備担当もそれぞれ割り振られ、
私は、2回遠足を担った。

大学が休みの日曜日、練習の合間に、事前の現場偵察へ行き、
計画書を作って提出。

日本の教育実習中に、遠足の計画を立てるような任務は無かったから
こういった経験や集団行動も、私にとっては、思い出深い。


教員に対する時給の高さは、
ドイツパンとハムを十分食べさせてくれる強い命綱になった。

けれど、それもしばらくすると400ユーロをすんなり超えてしまい、
お役所からイエローカードが届いてしまった。


それは大学修了の期末タイミングと重なり、

学年度末の3月、生徒達への通信簿配布とともに、
私は、2年弱の小学校教師を退職したのだった。

正直ピアノが悪阻濾過になりそうなくらい重責だったのは確かだ。

両立は必死だったが、20代の若さのエネルギーと勢いがあったからこそ、
できたのかなと、いまは感じている。