pppからfffを奏でる術を求めて


ずっと「何が違うのか」と考え続けた留学経験から
今あらためて 思うこと。

私は、しがらみ無し子。

つまり、たまたまなのか偶然なのか、分からないが、
お世話になった先生がたが、全員共通して

「束縛」が一切無かった。


日本の大学でお世話になった先生は

私の急な大学院中退の申し出&即ワルシャワ行き表明に、
「僕も一緒に付いて行きたいくらいだ」


ワルシャワの先生らもドイツ移住表明に
「ドイツで沢山勉強して、またワルシャワへ戻っておいで」


ドイツの先生らは、

「ここの大学は自由だから(一人の先生に限らず)
 いろんな先生のレッスンを聴講して、レッスンもどんどん受けるといい」


お陰で、デュッセルでは

近現代曲を専門とする教授のレッスンも受けることができ、
近現代音楽のピアノ実技履修という貴重な経験もできた。

すこぶるお品がよく、いでたちが優雅。
廊下を歩いているだけで独自の世界観を放つドイツ人の先生だったが、

異なるメトロノームを同時に2つ使って、模範演奏してくださった
レッスンは、本当に圧巻だった。

ショパンとも全くの別世界。


ホールに響くペダルを踏む音が、音楽の一部になっている曲や

ハーフペダル、4分の3ペダル、、、4分1ペダル 
プラス左のペダル、の明確な指示の上、鍵盤も、故意にアフタータッチを使用する

打鍵の細かな深さの指示がある世界。

ペダルは3本使用。アフタータッチを使って、
音は鳴らさないのだけれど、ハンマーだけ反応させて

その振動を利用して、僅かな空気に伝わる弦の波動を重ねて
音楽にする。


空間を聴く。音には鳴らず成る音。。。空間を聴く。

それを、指示されたテンポ、僅かな狂いも皆無で、最後まで正確に進めていく。
だんだんその世界が分かってくると、譜めくりも音楽の一部になる。


先生の楽譜には、
お手製の譜めくり付箋が各ページに綺麗に付けられていた。

なぜなら、譜めくりの雑音をできるだけ無くし、美しくめくる為だ。


先生の楽譜は、見た目から芸術だった。


いまも私は、伴奏譜を原本は使わず(汚さず)、コピーで製本する。
譜めくりの付箋を付けたり、大概、先生のように細工を施すから。


時々、コピー譜を貰うと、
完全な斜めで印刷しているものを見ることがあるが、

当先生の影響が大きかったのだろう、
斜め譜は、私にはすこぶる心地悪く、必ず自分で密かに真っ直ぐ刷り直しをしてしまう。


おおざっぱのO型のはずなのに、
拘りが異常に細かくなってしまったけれど、

本番で、蛇腹のコピー譜が譜面台から落ちるハプニングは
私には100%無い。


新たな世界に触れた近現代の履修がきっかけで、
現代曲演奏会にも出演させて貰ったが、

結果、演奏後舞台上で作曲者本人から、お褒めの強めのハグを頂いたことは、
嬉しかった一コマとして、頭にクリアに残っている。


こうしてデュッセルでは、ピアノに限らず、

ヴァイオリンやらフルートやら、様々な先生のレッスンにもお邪魔させて貰った。
楽器専攻のみならず、教育専攻の授業にも混ざって参加していた記憶も蘇る。



こうして国境を跨ぎ、県境を跨ぎ、
その地、その地の音に浸ったことは、

音の扱いの国差の面白さはもちろんのこと、
身体に生まれ持つリズムもそれぞれにあること、

そして奏法も色々あるということをリアルに吸収する機会になった。

正直、真逆に感じるものもあり、惑わされたりもしたが
いま、結論として演奏に大事なのは、

安易に巨匠のカタチの真似や受け売りではなく
その中から、自分の身体を通した”自分の技術”を見いだす事で

いい先生というのは、それを知り、自身でご経験があるからこそ
自分の生徒を自分の教えのみで、囲うようなことはしないのだろう、と思う。

そして、もしそれが、ファンタジーでなく、

物理的にも身体的にも筋が通っていて
そうなる理由が自分で説明出来るものであれば、

かならず音として明らかな結果が出るはずだ、と考えている。


現代のピアノを巧みに操り、加齢を重ねても技術が後退せず、
むしろ円熟している海外のピアニストには共通するものがある。

それは有難いことに、今はYoutubeから
リアルではないにしろ、映像と重ねいくらでも情報が手に入る。


まずそこから真を見抜き、聴き抜く鍛錬が必要だが、

それは ”自分の技術”を見いだしていく過程において、
随所随所の貴重な道しるべになると思う。


って、くち(言葉)で言うのは、簡単なんですけどね( ̄∇ ̄)笑