身体を傷つけることと比例するもの


ピアノ演奏による身体の故障は、
練習のし過ぎというより、故障が起きる身体の使い方の結果

では?と、認識している。

しかし、国際コンクールに入賞するレベルの学友の中にも、
手の痛みやこぶが出来る、水が溜まるなどの問題を
密かに抱えてる子がいたのも事実だ。

20代のうちに参加するコンクール内では、
拍手喝采の演奏は保たれるけれど、

30代後半、40代になったとき、
はたまたアルゲリッチ氏のように白髪になる頃まで、
あの演奏は続けていられるだろうか?


そういう懸念を密かにされている面があることも
現実である。


まだ身体が若く筋肉もフレッシュな時期は、
そのムリに気が付かず、無意識にもやり切れてしまう。

しかし自意識と運動の同期が外れたまま、限界超えの練習をすれば 
指令と神経が繋がらなくなり、

突然、意に反して弾けないという結果も起こり得るだろう。

音大内で、手首に包帯という姿を見掛けた事は多々ある。


ピアノを弾かない人からすると、
それは、まるで過酷な練習に耐えた勲章のようかに思われるのかもしれないが、


酷使した結果の疲労感と、
正しい身体の使い方をした後の疲労感とは、別もの。

演奏家が故障するということ、
ピアノあるあるの腱鞘炎なども、無いに越したことはない、気がする。

傷つけていけないものは、ピアニストの身体だけではない。

目の前にあるピアノが生まれ持っているはずの音色を
できるだけ引き出し、最良に美しく響かせるのも、ピアニストの仕事。

そのピアノの一番いい音の、フォルテ&ピアノを奏でられた時、

それはもしかしたら、
そのピアノも、一番傷つけられていない状態なのかもしれない。


ピアノという楽器を一番愛していた作曲家と言っても過言ではない
ショパン。

彼の独自の演奏法、パリのマダムたちを酔わせた音色は
もしかしたらそういうアプローチからだったのでは?と思ったりする。



あるロビーコンサートで出演した時のこと。

事前のリハ-サルで弾き始めてすぐ、 
弦の一部に凄く違和感を感じて、ホールの担当者さんに、


最近、弦が切れたか何かありましたか?と聞いたら

あ!つい先日、
ピアノの弦を直接こするパフォーマンスの演奏会がありました。汗

と。


ショパン音楽院で師事した、ラミーロ先生が言っていた。

マキ!ピアノはね、弾き手と同じに感じているんだよ。

怒って乱暴に触れれば、怒るし、
弾き手に痛みがある時は、ピアノも痛がっているんだ。

こう優しく接したら、ほら、優しさが返ってくる。


BBAになっても、変わらず弾いていられる
寿命が長い奏法。

探究は続く。