続エア練習のつもりもなく
しっかりして太く、全部の音がビビットに聴こえる、というのは、
日本人にとって、安心で正解という認識になりやすいだろう。
確かにポーランド語のようなウィスパーさや余韻は、日本語には感じにくい。
日本人が反射的に分かりやすい、聞き慣れて認識しやすいとするのは、
つまり日本語的な音なのかも、とも思う。
また
終始一貫した音量と圧倒感に、すぐ傾倒しやすい空気があるのは、
言葉の抑揚が少ないことにリンクしているかもと考える。
日本語は類義語が多いのか?発音の抑揚的な表現をそこまで要しないのかもしれない。
音に関して
自分の趣味や好み、そして理想は、その真逆に位置するわけだが
20年の月日は、それに動じない是々非々も養ってくれた気がする。
長きをかけて変わってきたが、
これからも奏法の変遷とのつきあいは永遠に終わらないし、
終わらないのがむしろ正解だと考えている。
身体がどうしたって年老いていく以上、アップデートができるプロセスは
幾つも持っていないと、
若い頃は弾けたなぁ、、、と昔の録音を愛でるなんてことに成るのは必至だ。
ファンタジー的、宗教的な技術論は、一瞬音楽的で聞こえが良いようだが、
フェアーな頭で冷静に捉えてみると、
エビデンスが浅くフワフワと浮ついていることが多い気がする。
その点、
浅はかな見解ではなく慎重に四苦八苦探究されてきているだろうひとの言葉には、
プライドと信念と共に、共通して謙虚さを備えているものだ
と拝読するたびに感じる。
確かな技術論ほど、感情論からくる短絡的なものでなくなっていく。
進むほど未知の存在に気付き、長期戦を察し、その姿勢ができるのではないかと思わされる。
物理理論は基本不変だが、
昔より弾ける、3年前より進歩、半年前より上達を得られる技術は、
其の理論の捉え方と人の身体の成り立ちの掛け算なゆえ、
常に新しい意識が必要だと思っている。
身体は変わっていくが、身中の基軸となるポイントを見つけ出すことはまず重要だろう。
そしてそれを実際に稼働させて、安定の領域になるまでの鍛錬。
そのあとレゴみたいにハマっていく感覚からの確信。数年で仕上がるものではない。
加えて
楽器に支えられた直近の2年も、貴重であった。
ピアノ演奏は
物理学、生体学、、、運動神経、性質、聴覚、いろんなものが交わって
着地する。