ワルシャワの春
”しるしぶみ”
自分の弾き方への疑問。
自分の中で渦巻いていたモヤモヤ。
先が見えない不安定な練習。
そんな暗中模索の中に居た私にとって、変化の第一歩になったのは、
セミナー受講生が、まだ分厚いコートを着込んで臨んでいた
ワルシャワの早春、ショパン音楽院での短期セミナーで
当時名誉教授だった故スメンジャンカ(Pani Prof.Regina Smendzianka)先生の
レッスンを受講したことだった。
短期間で数少ないレッスンの中
スメンジャンカ先生が、私にお尋ねになったある場面。
その返答として
私は、突然ピアノの椅子から立ち上がり、
椅子後ろのスペースをステージにして、
劇中、スポットライトを浴びる主人公俳優のごとく身振り手振り演じ、
スメンジャンカ先生に向け
”私のなかにあるものは、こうなんです”と
その時の自分の中にあった音やイメージを
ジェスチャーで訴えたことがあった。
恥ずかしがるのも忘れる、溢れ出た想い…みたいなものだろうか。
その時、必死に演じる私のセリフ(日本語)を翻訳し、
愛を持って伝えてくださったのは
スメンジャンカ先生の一番弟子であるピアニスト平澤真希さんだ。
そして師は、驚きながらもそれを最後まで熱心に聞き、
最後には、笑顔で “とても気に入ったわ!”と言ってくださったのだ。
最後のレッスンが終わる頃には、
私はワルシャワへ留学したい想いと決意ができていた。
スメンジャンカ先生は、ワルシャワ音楽院はすでに退任されており(名誉教授)、
大学の学生でないと、滞在ビザを取得するのは至難の技だったため、
(現実は、学生証の証明があっても、ワルシャワのビザ取得は当時大変だった)
それをスメンジャンカ先生に相談すると、
『 そうね!大学に入るのに賛成するわ。
んーちょっと他の先生とは違う弾き方をする男性の教授なんだけど、
きっとあの人ならあなたに合うと思う。
その教授に電話しといてあげるから、日本帰国日までに直接会っていきなさい♪ 』
と言われ、
紹介されたのが ワルシャワ音楽院で教鞭をとっていた
ロマ二ウク教授(Pan Prof.Jerzy Romaniuk)だった。
スメンジャンカ先生がわたしのピアノをどう思って
そう仰ったのか
亡くなってしまった今、改めて尋ねる術もないのだが
その後、ワルシャワの学生になってしばらくし、
つまりスメ様(敬意を表しワルシャワの日本人の一部はそう呼んでいた)が
まだお元気だった頃、
通訳をしてくださった平澤さんに大学でばったり会い、
“『あの子は元気にやってるかしら?』って真希さんのこと
スメジャンカ先生がおっしゃってたわよ(^o^) “
と聞いたとき、
すぐに会いに行けばよかったと、今更 後悔している。
その頃は ロマニウク門下生になり、手探り状態で自分に余裕が全く無く、
何が変わったというような確信も無い自分が不甲斐なくて、
ただ逢いに行くことができなかった。
流石にドイツに移る時は、
お会いしたくコンタクトを知人に頼んだのだけれど
入院されていた時期と重なり、叶わなかった。
スメンジャンカ先生のレッスンは、舞いのぼる美しさの記憶。
スメ様の理解とこの導きが無ければ
今、私は確実に 志半ばのじぶんだったろうと
心から感謝している。
※ワルシャワで購入したスメンジャンカ教授の書籍