あるピアノ奏法④ブライトハウプトとの因縁
④ブライトハウプトとの因縁
ブライトハウプト著で最も注目されたと言われる書籍を開くと、
短い師弟関係であったカラントの真似?!と思わせるような写真や図が、
すぐ目に飛び込んでくる。
(さすがにレントゲン写真は、撮らなかったのだろうか...)
一見に惑わされることなく、よく内容を理解し比較することができれば、
それは、まったく異なるものだと判断できたかもしれないが、
この絶妙なつくりは、
同じベクトルの改良版かと読者の勘違いを誘うのも無理はない。
さらに、先出しのカラント著作から、読者的にキャッチーな
言葉や理論だけを選び取ったと見受けられるブライトハウプトの内容は、
当然ながら、統一性や矛盾の無いものに仕上がっているわけがなかった。
これを手に取って見たカラントの心中は、計り知れず、
賢い彼女は、読者の心理も同時に懸念したに違いない。
矛盾に気付く他の音楽家の批判もあったようだが、
ブライトハウプトは胆力があった、すぐにそれを迎合するかのように改訂を重ね、
次々再版する早さが効を奏したのか、書籍は結局売れに売れた。
その結果、ブライトハウプトの「重力奏法」は大流行となった。
カラントからすれば、
進むかと思った時代がまた引き戻されたかのようだったろう。
デッペの小論文(1885年発刊。出版社から話があったことがきっかけになったもの)が
出された時は、
ハイフィンガーとされる弾き方がまだ火種として鎮座しており、
その陰では、故障者が絶えない時代だった。
それは、もうショパンがいない、
かろうじてリストがまだ生きていた世代ではあったものの
奏法を習う者としては、混沌とした時代が過ぎていたと言える。
確かに、リストも若い頃は、
ショパンがあっさり断ったカルクブレンナーの練習マシーンのことを
悪くは言っておらず(「弟子から見たショパン」にもある)、
重いピアノで何時間も練習することを助言していた、ともあるが、
年齢を重ねると共にリストの演奏は変化していった、という証言があるように
フランスやイギリスで別格と認識されていたショパンの音を、
彼も死ぬまで忘れなかったのではないだろうか。
ショパンやリストそれぞれが綴る音は、聴く側には浸透していたはずだが、
時の流れと先入観は、その記憶をも、ぼやかしたのか...
ブライトハウプト奏法は、新時代到来のごとく華々しく拡がっていったのだろう。
その後、音楽が町から消えたであろう第一次世界大戦が始まる。
カラントは、世界恐慌の始まりと共に亡くなり、
ピアノを弾くという皆々のステータスが自粛されるという時を迎えていた。
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