1g以下の接触世界 ~拙著タイトルの主旨~




1月、初めてのセルフ出版から何もできないまま、
1か月以上の時が経ってしまった。

実のところ、家族の事情で慌ただしい毎日となり
出来上がった拙著をゆっくり読むということすらできなくなっていた。

目途としていた1月27日出版は達成できたが
お世話になっている方に本の献呈ができたのは
ようやくの今、暖かい日が混じる3月になってしまった。


思い返すと、昨晩秋は
フランク・ヴァイオリンソナタのデュオコンサートをなんとか完遂。

毎日の経過は予想以上に速く流れ、年明けの1月は試練のごとく苦しく…

入稿後も原稿の読み返し始めると時の刻みはあっという間で、
朝刊配達のカブのエンジン音で、時刻を知らされることも多々あった。。。

自分の中ながら期日を志し、
一つのものを完成させるためのその追い詰められ感は
懐かしい大学の卒論の域ではなかった。

読み返しは、また別の読み方を生む事になってしまった。

見落としの様な単純な間違いを始め、
どう考えても書き損じだと感じることや様々な思惑や不安の湧き上りに繋がり、
入稿からのサポートをお願いしていた出版コンサルのエアさんには、
本当に助けられた。

本の表紙や小さな画材のデザイン、色合いなどは、
私の創作案をそのまま使ってもらい、
フォントチョイスや段落などの配置は、
エアさんのデザイン案、センスのフル活を希望した。
外観・見栄えを期待以上に素敵にしてくださったと感じている

私の考察の元になっているデッペのセオリーは
「よく知らないけれど、きっと昔の古い奏法でしょ」と
一刀両断されてしまうであろう。

同時代に偉人とされたリストに沿ったケースの場合は、
古いとは言われない。

デッペは廃ったものではなく
むしろ神経科学的な見方で動きを解し、生理解剖学にも沿っていたと考える。
そのようには、日本では捉えられていないけれど。

デッペのいう「鉛」を本当の意味で理解した日本の文献・論考に、
私は出会っていない。

殆どがその言葉が下向きの重力をイメージさせる先入観、もしくは
ブライトハウプトを一括りにした古い重力奏法一門に誤認されていると感じている。

カラントは、弟子であったブライトハウプトが唱える力と自論のそれとは、
向きが違うと最後まで提言していた…

私の考察は、
ショパンより18歳年下のデッペが唱えた奏法が基軸となっているが、
それを引き継いだカラントの理論が大きなコアとして存在している。

カラントによる奏法の公開講座は、当時ブゾーニら有識者も興味を持って、
実際参加したとの記録があり、
カラントの書籍の見開きに「ブゾーニに捧ぐ」とあるのは、
その縁によると読んで知った。

拙著のタイトルは、
そのカラントの身体の生体理論に、もう少し深い観点と現代視点をもって突っ込み、
自分で名称を付けたもの。

1900年初頭には、当然まだ無かった単語である
ニューロモーターコントロール(ニューロ+モーターコントロールの造語)と
バイオテンセグリティ、プロプリオセプション。

神経科学的にはまだ細分されていない分野だったゆえ、
カラントはおそらく自身の中で勘付き分析していながら
言葉としての表現は出来なかったのであろう、と
想像の域だが捉えている。

呼称として、これらの領域の動きを要とする意味で考えつつ、
あまりに長いのでニューロテンシルプロと短縮した。

ピアノという楽器の名称も、
最後の一番繊細な「ピアノ」という部分の言葉だけを残し
個体の名となった経緯があるけれど、
自分が唱える奏法に関しては、この3つの分野一つでも欠くことはできなかったため
全部入れつつどう凝縮するか悩んだ挙句
少々不可思議な語呂の並びになった。

自分が理想とした音の獲得へのセオリーが
ショパンの弟子らの証言と一致しなければ、神経科学的解釈はもろくも崩れ去る。

これら3つは神経科学の領域の言葉なので、
その論拠には仮説が必要と感じていた。

もともとが揺るぎないショパンの美音への近づきが原発であったことから
ショパン技法をどう仮定するかは悩ましく重要な点となった。

私が仮説するネオ・フレデリック・ショパンのエネルギー分析は、
弟子の証言が頼りの綱であると同時に
現代のフルコンをショパンが弾いたとしたら、という推察も包含している。

決して浅はかな取り組みで仕上げたものではないけれど、
さらに改訂できるよう、
まだまだ探究していかなければ、と今も感じている。