モノマネは許されず。。。


イチロー氏の
「目に見える部分しか言えない人が多い」というのは、

人はどうしても目に見えるものに囚われやすく、
目に見えないものの習得は容易ではない上、説明もしにくい

ということだと思っている。


私が普段ピアノを演奏する際の感覚的なものは
はっきり自分の中にあるのだけれど、

これを他人に分かるように説明しろと言われると
以前の記事で “言葉は難しい“と書いたように、

かなり悩ますものになる。

外から見える形から入っているのではなく、
中からのアプローチ。

人は、自転車に乗れるようになると、
乗れなかった感覚が分からなくなる。

取れなかったバランスが一度取れてしまうと
逆にアンバランスを保つことが、難しくなってしまうように。


どうやったら、その弾き方になるの?
と道順を聞かれ、

たどって来た道を振り返ると、アレ…となる。

補助輪をつけたり、後ろを持ってもらったりしながら
何度も何度もこけて、自分で立ち上がり…

を繰り返し、その中から、自分の身体で掴んだバランス。
自転車が乗れた後のような感覚と似ている気がする。


正直に思うことを述べれば、

自分は
ロマニウク教授&ラミーロ先生の奏法を基盤にしながらも、
色々重ねては混ざって消去して、また重ねて…と
常に変化してきているだろうと思う。


肩(肩甲骨)からのアプローチを指示するレッスンの中、
ロマ教授は、
指はこの角度、この形にしなさい と言うような強制は無かった。

逆に、ラミーロ先生は、
指先の感覚の指導が印象的なレッスンだったが、

最終的な鍵盤との接触(タッチ)を伝えるのが目的で、
そこまでのアプローチに、強制は無かったと思う。


人は、手の大きさや指の長さに大きな違いがある。
ましてや 肩の位置も幅も、腕の長さも肉付きも違う。

私の爪なんて、全く痛みはないが、極端な深爪レベルだ。
指紋も違う。


つまり、2人の先生のレッスンは、結局、
モノマネをさせるのではなく、むしろ自己分析を強いるもので、

その先、永遠に使えるヒントだけを私に残し、
自分で自分をカスタムしていく術と耳を伝授されるものだった。


小学生の卒業アルバムで
モノマネNo.1に選んでもらえた身としても(笑)

それは、しんどい道だった。
モノマネはすぐ見透かされ、許されない。

帰り道のトラムと地下鉄は、よく泣いた。

いつを振り返っても
ワルシャワ時代は、暗く沈んだ思い出ばかりだ。