ワルシャワ音楽院 今昔感
かつて通った“ショパン音楽院“は、
今は、“ショパン音楽大学“になったそうで、
大学校舎も随分綺麗になったようだ。
入って正面にある螺旋階段の手すりは、
まだ古びた木製だった記憶がある。
当時のレッスン室の窓も、ほとんど木製のもので
大概の縁っ子がボロボロになっていた。
数多くない練習室のピアノは、
古いものが多く、弦が切れているのは普通で、
鍵盤が上がってこない、ガタガタするとか、
鍵盤の白い部分が指の形に凹みができていたり、
ベロンと剥がれているものもあった。
それでもいつも空いているわけではなく、
空くのを長く待ったこともしばしば。
借り方は原始的で、
レッスン室、練習室の鍵を全部管理している受付のお姉様に
口頭で空きを尋ねて、鍵をもらう。
一応、MAX2時間で1枠だったかな。
後ろに待ちが無ければ、延長可。
当時から、韓国人やモンゴル人の女子留学生も沢山居て、
練習室の前で顔合わした時は、
ハ〜ィ!( ^∀^)/ と挨拶を交わしてくれた。
練習室の空きを待つ彼女らの賑やかな韓国語の会話は、
何言ってるか分からないながらも、なんだか楽しいリズムだった。
レッスン室の窓からは、緑いっぱいの裏庭の木立や
市民が犬と普通に散歩している景色があった。
ショパンもこんな感じの木枠の窓の外を眺めて、
物思いに耽ったことがあったんだろうか。
どんな景色が彼の気持ちを癒していたのだろう…と、
レッスン室には、そんな物思いに浸れる古さの趣があった。
ラミーロ先生のレッスンだったか、
(↑レッスン室が固定でなかったのでよく移動した)
設備のYAMAHAのグランドピアノが、
菊の御紋が象徴された(側面に金で印字された)ものの時が何度かあった。
それを見て、いつだったか母から、
高円宮憲仁様がポーランドへ贈られた日本からの献呈ピアノがあると
いう話を聞いていたのを思い出した。
それがそれだ、という確証は無かったのだが、
なんだか日本とポーランドとの繋がりを見たようで、
密かにあったかい気持ちになった記憶がある。
今もあるのかな。。。
当時のワルシャワの楽譜屋さんで楽譜を買うというのは、
物価的にポーランド人の学生にとっても、
そんな容易いことではなかったようで、
オリジナルの楽譜を持っているのをあまり見掛けない代わりに、
きちんと製本されたコピーの楽譜を使っていた。
多くの学生は、
院の地下にあるコピーコーナーで申込みをして、複製をしてもらい、
プラスチック製のリングできちんと製本してもらうのが、
定番だった。
そこには、コピーの達人のフクヨカなオバちゃまが居て、
スーパー早いテクニックで両面コピーをさばいていくのが見事だった。
気付けば、私もいつしかコピー派に。
帰国した今でもそれは習慣として残ってしまい、
原本の楽譜とは別に、
コピー譜を自分でリング製本するスタイルになっている。ハハハ。
私が学生になって2年目あたりに、
螺旋階段の窓ガラスの枠が、木から金属製のものに変わる工事が行われ、
3年目くらいに、
コピーコーナーの前の廊下が新しく工事されて始めた記憶がある。
毎年、ショパン音楽院は工事祭だった。笑
今では、英語でレッスンを受けることも出来るらしいとか?
きっと街も学校も
ますますインターナショナルになっているのだろう。
おおお〜と思いつつ、なんだか寂しいような。。。⤵️
言葉の壁が少ないことは、ストレスも減るし、
ポーランド語が日本で役に立つ場面も、正直皆無だけれど、
ポーランド語、ドイツ語…と振り返ると、
その国の言葉のアクセントや余韻は、
音のヒントに繋がるものも大いにあるのではないかと、
私は感じている。