シュトゥトガルト〜入学試験〜その2
(シュトゥトガルト〜入学試験〜その1 の続き)
まだ自分の中でドイツ語に不安があったことが拭いきれず、隠しきれず
心のどこかでバランスを保れてなかったのだろう。
受験当日も、
ラトゥシインスキ教授以外の教授陣が話すドイツ語に
怯えていたと振り返る。
そもそも資格を満たしてないのに受験しているような。。。自己嫌悪。
ドイツ語で指示されたことが確実に聞き取れていないんじゃないかという
自分への不信…
(今は分からないが、
シュトゥットガルト音大の受験はドイツ語検定のラインが厳しくなかった)
試験プログラムのうち
スクリャービンエチュードやショパンのバラードを含め、最後バッハを弾くことになった際、
最後の最後でそれが急に爆発し、演奏が大崩れしたのだ。
明らかにそれまでの空気と変わったのが、心中崩壊ながら分かった。
当然の結果が待っていた。不合格。
ラトゥシインスキ教授も私の急な変調は、予想外だったようで、
一体どうしたんだ?!と。
でも、演奏の評価を話してくださり、
「次のゼメスタ(次期)をもう一度チャレンジしなさい」と
言ってくださったのが救いとなった。
再挑戦。
が、たまたまその時期、大学が課程を格上げするときで、
私が再度受験となった学期から、私が希望していたコース/課程が
正式なマスター(修士)課程となった。
私は日本での最終学歴が修士課程を自主中退していたので、
更なる入学意欲にもなり、
1大学につき2回までしか受験できないドイツルールからも
落ちるわけにはいかなかった執念(笑)で、
ドイツ語の証明書も付き、二度目は、無事合格した。
ラトゥシインスキ教授は、
受験プログラムも一新して二度目を臨ませてくださり、
バッハのトラウマも見事に消してくださった。
マスター課程となると、ワルシャワ音大の研究科とは別物になり、
ドイツ人の学生に紛れながら、実技外の講義も沢山履修しなければならず、
提出物も多い。
同じ学期生に日本人が居なかった分、一匹狼への試練にもなった。
その先、デュッセルドルフ音大入学資格に、
このマスター課程修了が関わってくることになるとは
その時深く知ることもなかったが、
そうして私の大学生活は半年遅れで再スタートを切った。
当時、ドイツはユーロ180円の物価。
ポーランドからすると、右から左だ。
スーパーの買い物も全てが高く感じる極端な差異があったが、
年齢を問われず、
また違う環境で学べることは大きかった。
ドイツ流奏法/ハイフィンガー奏法が広まった起源とされる街、
シュトゥットガルト。
“右から左“は、物価だけには留まらない場所だった。