ピアノアクションの臨界が生む 輪郭ある美弱音
メーカーや調整状態によってだが、
一般的なグランドピアノは、
おおよそ50グラム前後の力で、鍵盤が下降し始めるとされている。
また、愛好者が多いスタインウェイは、他のメーカーに比べ
さらにそれが軽いという 感想 をよく耳にする。
この鍵盤の下がるg数というのは、
調律師さんのブログや動画でもよく出てくる内容だ。
小学校の理科で使った、懐かしい分銅や10円玉を鍵盤上で重ね乗せ、
おおよそ計50gになると下降する映像で、仕組みとして説明されていたりする。
この数字が意味するものは、
その50gのライン越えによって、音が鳴るというわけではない。
無論、例えばオクターブ(親指と小指)で打鍵するならば
50g+50gの100g重が必要という安易な算数に、なるものでもない。
私が唱える「1g以下の感触」を第三者の手の甲に触れて伝えようとするならば、
結局それは、どうしても「人の手に対して」のものであり、
加速を伴い下降を始めるアクション機構の鍵盤とは
まったく同じ現象にはならない。
ピアノを弾く力、動力は、
常にアクション機構の物理世界にゆだねられる。
どのアコースティックピアノも奏者の「打鍵」にアクションが反応し、
最終的にハンマーの接触として現れることに変わりはない。
実際起きているピアノアクションの現象は、
通論の上に起きている物理現象。それを経た変化が多様な発音となり、音楽となる。
音は、生身の神経命令が物理の定数上に変数として掛け合わさり
生まれていると考える。
定数であるアクションは、奏者から伝わる変数で常に変動し、
微細な反応となって示す。
感性で求める音の世界とは一見異なるが、
感性のままと聴き惑うような多彩な打鍵のプログラム(物理×生理)が、
音楽が色付くか否かに大きく繋がる、と感じている。
指先の向こうに存在するものの現実は、テコ作動の連携。
本当の「輪郭のある美しい弱音」とは
どんなもので、そこをいかにして奏でられるのか?
テコの仕組みであることがミソの一つになっている、ピアノという楽器の特性。
ピアノアクションと人、入力と出力は一致しないところが魅力である鍵。
自分が流す情報、つまり自分の神経領域が最大化されることは、
すなわち脳がどこまで美しいテコ連鎖反応を指令できるかという
コントロールの限界に挑む技術。
見た目、僅か打鍵1センチにも満たない距離の中にそれは秘められ、
要はアクションコントロールの緻密さ、というのが
私の考えである。
大きな音量は、人の注視に効果のある手立てになる。
救急車のように、その場で最も大きく鋭い音は、誰もの耳に容赦なく届く。
反面、ソフトで囁くように放たれる音、
微小であっても全てが鮮明で精緻に弾き分けられている音は、
人の聴覚、聴き分ける耳を要求する。
ショパンが少人数のサロンでの演奏を好んだのは、
穏やかに耳を傾けてくれる周りの聴衆へ、
混じりけの無い音の質の提供が叶うからだったという想像は、
一つの理由として間違いない気がしている。
またダブルエスケープメントに頼らず、
自らの指のコントロールが醸し出す彼の音の彩は、
それを静かに聴き取れる聴衆を、さらに淘汰するに近いこととなったのでは、と。
それゆえ、ショパンが舞台で聴かせた演奏は、
周りのような分かりやすい大衆向きではなかった、気がしている。
ピアノという楽器は、
この1センチの先にそのスキル領域が存在している。
鍵盤上で動かして見せることができる、あちら向きこちら向きという
可視的マクロな動きに頼るのでは、
彩りの限界は思うより早くに感じてしまう、と私は考えている。

