1g以下の接触世界 私が愛するピアノ
「1g以下の接触世界」
先回からテーマにしているこの言葉を
1月に自費出版した拙著のサブタイトルに考えたこともあった。
自分は随分長い期間、奏法の変遷をしてきたと振り返る。
その時、その時においての鍵盤への接触の仕方、
エネルギーの使い方がどう異なるのか、に悩んだ時期も長かった。
かつて 「手の重み」がキーワードのように飛び交う重力奏法の時もあった。
私の実践上エネルギーの負荷感覚を
誰かの手に落としたと仮定した1g以下世界の感触は、
共感してもらえたとて、それはまた別の問題が出てくる可能性も考えるので
また別記しようと思う。
1g以下の接触世界という深さのコントロールは、
体の動きや位置により変化させることができるマクロ領域のものではない。
今あるこのマイクロ感覚の存在の盤石は、
愛する楽器との運命の出会いで確信となった。
これはもちろんマクロ領域とも密接に繋がっていることの意味も併せ持つ。
楽器一つの個性とのめぐり逢いというものは、
とことん探し回るという私の執念のようなものもあったが
不思議なもので、そこから想像もつかない「運」もある。
私は幸せなことに祖父の趣味が楽器好きだったこともあり、
幼少期から楽器が身近にある環境だったのだが
留学によって奏法が具体的に変容し、
帰国後、嫌というほど長い時間悩み尽くした結果、買い替えを決断した。
今のピアノに出会ったのは、
過ぎた時間はよく言われる諺のように早いもので、もう4年以上前のことになる。
その時の印象は文章となり、販売店の記録とされているのだけれど
今、改めて読み返してみると、
その時抱いた感触に、ズレも間違いも無かったとを感じ取れることに
少々驚いている。
あの触れた時の感触は、今も忘れられるものではない。
アクションというものは一台一台個性を持ち、
メーカーの方針を抱えている。
ピアノはできれば1台しかない、手造りの唯一の存在であるのが理想だ。
自分にとって良い楽器を選ぶ(探す)という行動は、
やや運命のいたずらというものも関与してくるものであり
その出会いという時間の一致だけは偶然と呼べるものだろう。
これは思いもかけない人との出会いと同じで、
計って出会えるものではないと、しみじみ感じている。
こちらのオーダーでもないあの時それしかなかった今の一台には
メーカーから計られることなく、ふいに起きた巡り逢わせがあった。
あの時、私がまだ確信とし切れていないことを、
確実に明確にしてくれるのではないか、という運命を感じた際の
期待は弾く身体を通し、思い通りの結果として確実に手の先へ認識させ続けている。
私が欲しかったものは、弾きやすくまとめてくれる特許ではなく
厳格でシビアな反応、答えだった。
私がこれだと全身の鳥肌が立つほどの反応から
生涯の相棒としたいと感じたそのピアノアクションは
私にとって唯一無二の秀逸を持つ存在である。

